即位って割とギスってる。。。-天皇の日本史(井沢元彦)-
藤原氏、源氏、徳川など日本の歴史では様々な支配者たちが現れてきた。
ところが実質的に日本を支配しながらもなぜか天皇にとって代わることはせず、形式的な日本のトップはずっと天皇であった。これはなぜだろうか?
よく聞かれるのは、「天皇を滅ぼすよりも、天皇の権威を利用して自身の権力に正当性をあたえたほうが都合がよかったからだ。」という意見だ。
それも理由の一つに違いないと思う。だが、他国では王朝交代が普通に行われていることを見ると、日本でだけ王朝交代が起こらなかった説明としては弱いのではないかと感じる。
そのため、そこにはきっと日本独特な面白いドラマが色々と隠されているのではないかと思う。
そこで、日本史において天皇がどのような存在であったのかを確認しようと考えて、本書を手に取った。
著者は「逆説の日本史」シリーズの井沢元彦さん
井沢氏は日本の歴史学会は資料絶対主義だと批判しており、同シリーズでは資料に残されていない時代背景や人間の機微に対する鋭い洞察が展開される。
また、「さすが作家!」と思わせるドラマ性を感じさせる語り口が、私のような歴史学の門外漢にとっては非常にとっつきやすい。
ただし、井沢氏独自の見解は憶測の域を出ない点は否めない。そのため、書かれている内容を鵜呑みにするのは注意したほうがよいだろう。
とはいえ、歴史に関する初学者向けの本がどれも内容が薄いものが多いなか、かなり突っ込んだ内容にも触れつつ、とっつきやすさも保っている本なので、私は同シリーズがの大ファンである。
「天皇の日本史」について ー天皇の即位の裏にはドラマありー
さて、宮内庁のHPにある系図によると令和の天皇陛下は126代目である。
そのうち「天皇の日本史」では、約50人の天皇を即位順に取りあげている(即位していない聖徳太子も含む)。下の表は本書で取り上げられている天皇の一覧である。
諡号 | 世代(第○○代) | 即位年 | 時代 |
---|---|---|---|
神武 | 1 | 前660 | 神代・古墳時代 |
欠史八代※1 | 2~9 | - | 神代・古墳時代 |
崇神 | 10 | 前97 | 神代・古墳時代 |
垂仁 | 11 | 前29 | 神代・古墳時代 |
景行 | 12 | 71 | 神代・古墳時代 |
応神 | 15 | 270 | 神代・古墳時代 |
仁徳 | 16 | 313 | 神代・古墳時代 |
雄略 | 21 | 456 | 神代・古墳時代 |
継体 | 26 | 507 | 神代・古墳時代 |
欽明 | 29 | 539 | 飛鳥時代 |
敏達 | 30 | 572 | 飛鳥時代 |
用明 | 31 | 585 | 飛鳥時代 |
推古 | 33 | 592 | 飛鳥時代 |
聖徳太子※2 | - | - | 飛鳥時代 |
天智 | 38 | 668 | 飛鳥時代 |
天武 | 40 | 673 | 飛鳥時代 |
持統 | 41 | 690 | 飛鳥時代 |
元明 | 43 | 707 | 奈良時代 |
元正 | 44 | 715 | 奈良時代 |
聖武 | 45 | 724 | 奈良時代 |
称徳 | 48 | 764 | 奈良時代 |
光仁 | 49 | 770 | 奈良時代 |
桓武 | 50 | 781 | 平安時代 |
平城 | 51 | 806 | 平安時代 |
嵯峨 | 52 | 809 | 平安時代 |
文徳 | 55 | 850 | 平安時代 |
清和 | 56 | 858 | 平安時代 |
陽成 | 57 | 876 | 平安時代 |
光孝 | 58 | 884 | 平安時代 |
宇多 | 59 | 887 | 平安時代 |
冷泉 | 63 | 967 | 平安時代 |
後三条 | 71 | 1068 | 平安時代 |
白河 | 72 | 1072 | 平安時代 |
崇徳 | 75 | 1123 | 平安時代 |
後白河 | 77 | 1155 | 平安時代 |
後醍醐 | 96 | 1318 | 南北朝時代 |
長慶 | 98 | 1368 | 南北朝時代 |
後奈良 | 105 | 1526 | 安土桃山時代 |
正親町 | 106 | 1557 | 安土桃山時代 |
後水尾 | 108 | 1611 | 江戸時代 |
東山 | 113 | 1687 | 江戸時代 |
光格 | 119 | 1779 | 江戸時代 |
孝明 | 121 | 1846 | 江戸時代 |
明治 | 122 | 1867 | 現代 |
大正 | 123 | 1912 | 現代 |
昭和 | 124 | 1926 | 現代 |
平成の天皇(令和の上皇) | 125 | 1989 | 現代 |
※1 欠史八代: 古事記・日本書紀において記述されているが、具体的に何を行ったかについては記されていない第2代~第9代までの8人の天皇
※2 天皇には即位していない。皇太子であったが即位前に死亡。
面白いのは天皇の即位の裏にドラマがある点だ。
即位の経緯については歴史の教科書だとあまりスポットが当たらず、”○○天皇の後を継いで△△天皇が即位して、XXXを行った。”などのように淡々と流されてしまう。
本書は、即位の背景にある皇室内や臣下の政治闘争に注目することで、どろどろした当時の状況が浮き彫りになる。
井沢氏のかなり攻めた持論に基づく記述も多いが、淡々と事実が語られるよりも、様々な立場の思惑が錯綜するさまに惹きつけられる。
第41代の持統天皇が即位した闇深な事情
持統天皇は天武天皇の皇后であり、また天智天皇の娘でもあった。ご存じの通り天智天皇と天武天皇は兄弟なので、なかなかに濃ゆい関係である。
さて、天武には成人している皇子が数人いたのになぜ持統が即位したのか?
成人した皇子はいずれも持統天皇以外の女性の子であり、彼女と天武の間にも草壁皇子という子があったが病弱で即位前に死んでしまった。
そこで持統は草壁皇子の子で自分の孫にあたる軽皇子(のちの文武天皇)を天皇にしたいと考え、年長の皇子たちから軽皇子を守るために即位した。
ここまでは通説とされているようなのだが、井沢氏は裏の事情があったと推測している。
それは、皇統を守るためだったのではないかという推測である。
というのも天武天皇は正当な後継者ではなかったのではないか、という疑いがあるからだ。
系図上、天武天皇は天智天皇の弟とされている。ところが、武は壬申の乱にて天智の皇子である大友皇子を滅ぼして皇位を継承した。
そこで、天武が政権を奪取後に自己の正当性を示すために系図を捏造したのではないかといううがった見方がでてくる。
仮に上記が真実だとして、正当な皇統の断絶を憂慮した持統は、天智の血を引く自身の子孫になんとしても天皇位を継がせようとしたのではないか、と井沢氏は説いている。
この説はたしかに憶測にすぎるきらいもあるかもしれない。
とはいえ持統が天武系の他の皇子を皇位から排除し、自分の子孫を皇位につけることに相当な力を注いだのは事実のようだ。
そのために、藤原不比等と接近することで藤原氏が力をつけていくことにつながるなど、政治ドラマが後の歴史の方向性に大きな影響をあたえていることが見えて興味深い。